いやあ、まだまだ雪が残っていますな。

交通量がそこそこある場所の雪は路肩に寄せられているので(溶けにくい…)通行は支障ないとはいえ、スリップする可能性がゼロではないので油断大敵ですな。

「それにしても、危機管理について考える良い機会だ」と思ったので、先日の右腕をやらかした事案の続きをツラツラダラダラと書く。
 
先般言及した通り、「存在するけど使えない」「かつて便利に使えたものが使えなくなった」から一層不自由に感じている。利き手が使えないということは、かくも不自由なのか。
掃除炊事洗濯などの家事にはじまり、幾ら困っていようと黙っている限りは他人が率先して手を差し伸べてくれる訳ではない、など。
あ、いや、後半は利き手それ自体とあまり関係ないわな。すんません。

利き手というか右手・腕が使えないことで不便を感じたモノいろいろ。

トイレ

シャワーのボタン、そっちにボタンあるのね…と。

シュレッダー(手動)

いや、量が少ない時ははさみでチョキチョキするんですけどね、中途半端に量があるときは電気代を食わないコイツが大活躍でして…。

やむを得ず、足で固定。

はさみ

これはサウスポー用の商品が少ない→ユニバーサルデザインのものが増えてきた→なるほど〜、に通じる話ですな。
最近は100均のはさみもユニバーサルデザインだったりして、それなら使える筈なんだが…まあそもそも普段使っていない手で何か作業するという行為自体が骨が折れる訳で。嗚呼、己の不器用ぶりが憎い。


それから、使えないことに併せて「無理に使おうとすると痛む。しかも絶対安静。」ということも不便を感じる理由だろうな。痛みがないか、痛むけど動かしちゃっても問題ないなら、それはそれで工夫をするし。やっぱり「あるけど使えない」だからだろうなあ、と。

改めて「存在していたモノが使えない」状態をうっすらと考えた。
たとえば自分の右耳を振り返ってみるが、気付いたときには聞こえなかったので「言われてみれば聞こえないし、右側から小さい声で話しかけられても聞こえないから考えて話して欲しい」以上に思うことはなく。それで、耳が片耳聞こえなくなったことで不便だと騒いでいる人を見かけても「え、もう片方で聞こえるのに何が不便なんだろう…」という感じで。
だから、元々両腕を自由に使えていない人からすると「何を今更」という話ではあるのかも知れない。便利な状態に慣れるとそれが当たり前になるもんな。
生命の不思議というか良く出来ているというか。ひたすらに感心する。

ただ、「相手側が配慮しなければいけないなら、配慮しなくても良いように身体を整備しろ」と言われると「傲慢だなあ」と思う。じゃあ、肢体ないし、精神的に不自由をしている人一人一人に対してそういうことを言ってまわるのかな、とか。なんで自分のスペックを五体満足な人にあわせないといけないんだろう意味が分からんわ、などとも。
そういうことを考えると、不自由を感じるなりに暮らしている人から「配慮して下さい」ってお願いされたときにもうちょっと優しくなれると良いなと思った。他人はともかく、少なくとも私が。
誰に言われなくても、身の回りの人が不自由そうにしているのを適宜察して、程良い距離感で適切な対応を取れる程度に敏感でありたいと思った。うん。